2017年08月07日

第140回「ともに瞑想を」―母なる宇宙とともに-



④ 死んでいくこととは
死んでいくこととは、どういうことでしょうか。
生まれてきた人間は、必ず死んでいきます。不老不死の薬はありません。どなたも、やがて肉体が朽ち果てる時がやってきます。これは、みんな納得していただけると思います。
問題は、人は、生まれてから死んでいくまでの間に、本当に自分がすべきことを見つけたか、すなわち、自分の仕事を見つけたかということにあると思います。
これこそ我が天性の仕事だと、様々な分野で自分の情熱を傾けておられる方も、本当にそれが天性の仕事だと言い切れますか。
そのような仕事とは別に、もっと他に自分が成すべきものがあったのではないだろうか、やはり、そのようなことをふと思うのは、人生も晩年を迎えた頃でしょうか。
若くて血気盛んな時は、自分の能力を発揮できる場、チャンスに恵まれれば、大変有望な実りある人生だと、自己満足し、社会も評価します。当然、それなりの地位、名誉、財産、人望は得られるでしょう。
そして、そういう人が亡くなっていけば、一段も二段も高く、優れた人物像が描かれていき、いついつまでも語り継がれていくかもしれません。その人を知る人達の間では、ああだった、こうだったと、もてはやされて、語り継がれていくでしょう。やれ生誕祭だ、何とかの神様だとか言って、お祭り気分で浮かれていくことだと思います。
しかし、それは、現に生きている人達の側のことで、当の本人にしてみれば、その肉体を捨てた、すなわち、死の瞬間を迎えた時点で、そういった輝かしき栄光は、消え去っていきます。華やいだ雰囲気は、その人が肉体というものを身に纏っている時に限られます。
本人は、それどころではありません。肉体を脱ぎ捨てた瞬間に、そんな生前の華やかな雰囲気とは似ても似つかない、重苦しい世界を味わっていくからです。
呼べども叫べども、その重い苦しい重圧が覆いかぶさってくる。これが肉体を持っている間に、本当のことを知らずに存在してきた人間の実情です。
死んであの世から、自分の今の世界はこんな世界だと語ることはありません。語ることなどできないからです。天国に安らかに召されてなど、もってのほかです。

では、死んでいくことは苦しみなのでしょうか。なぜ苦しみなのでしょうか。
そもそも、私達は苦しいから生まれてきました。苦しみから自分を救い出そうと生まれてきたのです。その出発点を知らずに生き、そして、死んでいけば、死んでいくことは確かに苦しみに違いありません。
生まれてきた殆どの人は、人生の出発点を知るという自分の計画が、目の前の陽炎にうつつを抜かしている間に頓挫してしまいます。その人には、うつつを抜かしたつもりはないのかもしれません。また、精一杯人生を歩いてきたと思われるかもしれませんが、
「自分は苦しいから生まれてきた。」
「その苦しみから自分を解き放していこう。」
という自覚はなかったはずです。
さらに、殆どの人が、死ぬということは、すなわち、自分というものが消えてなくなると思っています。
自分の愛する家族も、やってきた仕事も、築いた財産も、その時点でみんななくなってしまう。いいえ、そのことより「死ねば自分はどうなってしまうのだろうか」と、自分というものがなくなってしまうことに、例えようもない恐怖があるのです。
そのような人に、自分の死を本当に喜びで迎え入れることなど、できるはずがありません。だから死んでいくことは、苦しみでしかないのです。
ましてや、病気になって肉体的な苦痛を伴いながら、自分の死を待つ日々は、苦しみでしかないと思います。
「死にたくない、死ぬのは怖い」、心の中ではそう思いながら、「どうせ自分はもうすぐ、この世からおさらばしていくのだ」と、自分に言い聞かせているだけではないでしょうか。
いくら自らを励ましても、刻一刻とその時は迫ってきます。
他力信仰をやってきた人達は、神のお導きを、仏のお慈悲をと、縋るような、祈るような思いを出し続けます。
また、常日頃は神、仏とは無縁な人であっても、なかなか心の中は大変だと思います。大変で当たり前です。その人達は、自分自身に冷たい仕打ちをしてきたからです。
自分はそんなことをした覚えはなくても、生まれてから死んでいくまでの間、苦しみから自分を何一つ救うことなく、苦しみを重ねていったに過ぎなかったなら、それは自分自身に冷たかったことになるのです。その残念無念さが、ただ心に満ち満ちている状態だと思います。
もっとも、このことは肉体を纏っている時には、自分自身ですら気付けないでしょう。自分の心の世界が大変な状態であることに、肉体生命が閉じる瞬間まで気付けない人が殆どだと思います。



そうですね。苦しいから生まれてきた。苦しみから自分を救い出したい。本当に自分を救い出したい。苦しい、苦しい。ここから救ってくれ、なんとかしてくれ。自分の叫び声を、肉体を纏っているときに知っていく気づいていく人は、それはほんの一握りの人でしょう。心を見て、自分の心の叫びに触れていく人達、その人達はやはり幸せな人達だと思います。どんなに苦しく、叫び声をあげている自分を感じたとしても、その自分を感じて、その自分に、「間違ってきた。私達は間違ってきた。みんなみんな間違ってきた、お母さんの温もりの中へ帰ろう。お母さんの温もりの中から生まれてきた。愛の中から生まれてきた。その中へ帰ろう」と、ただひたすらに伝えていけることを知っている、その実践をしている人達、その人達は幸せだと思います。どんなにお金があっても、どんなに周りに優しい人達があっても、自分の心の叫びを知らずにこの世を去っていくという人生、何度も何度も私達は繰り返してきたはずです。
だから死を恐怖する、死にたくない、そういう心は、みんなどなたの心の中にもあります。だけど、私達はそれを自分の中で乗り越えるというか、自分の中で解消していかなければなりません。また、解消していけるんです。田池留吉の世界、アルバートの世界、お母さんを素直に、本当に素直に一生懸命に呼び、思い続け、何の欲もなく、ただひたすらに思い続けていくこと、そのことをしていけば、自ずと心の中に広がっていきます。温もりが、優しさが、安らぎが。そんな中にあった自分達だったって自ずとわかってきます。それが幸せな人生だと私は思います。
ただひたすら、田池留吉を思える、アルバートを思える、意識の流れを思える。そんな幸せな時間、空間、できるだけできるだけ持っていきましょう。
現象界は反対にとても厳しく大変な時期を迎えていきます。形にとらわれていけば、自分を見失っていきます。せっかく学びに繋がったのに、自分を見失っていく、元の木阿弥へということ。そこへ転落、自らを落としていくことのもうないように、落ちても踏ん張ってください。そこからすーっと浮上できるように自分の基礎を固めてまいりましょう。

それでは少し思いを語らせてもらい長くなりましたが、ともに瞑想していきたいと思います。
自分の死に対して、死後の自分をしっかりと真正面から捉えて、自分を見つめてまいりましょう。優しい優しい中で、自分を見つめてまいりましょう。そんな時間を持っていってください。


posted by UTAブック at 21:53| 大阪 ☔| Comment(0) | 母なる宇宙とともに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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