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「ともに瞑想を」、今夜は、第103回目の配信となります。今夜も、塩川香世さんと、意識の世界を、ともに学んでまいりましょう。
今夜は「宇宙の風 私達人間は、死んで終わりでしょうか」11ページから16ページ「2.生きることと死ぬこと」の部分が朗読され、その後ともに瞑想してまいります。
2.生きることと死ぬこと
あなたは生きることに疲れていますか。
それとも、ひとつの目標に向かって、夢に向かって頑張っていますか。
惰性で生きているあなたであっても、生き生きとして生きているあなたであっても、あなたは今そこに存在していることに違いはありません。
あなたの心臓は今確かに動いています。
だから、みんな自分は生きていると思っています。
ところで、生きることの逆は、死ぬことです。
それでは、生きることと、死ぬこととの違いは何だと思いますか。
本当に両者には、大きな違いがあるのでしょうか。
さらに、生きている時間は、死ぬということで途切れると思いますか。
確かに****という名前の付いたあなたの時間は、死ねばそこで途切れるでしょう。
あなたのその身体の機能もすべてその時点で停止し、その身体は放置すれば、やがて朽ち果てていきます。
もっとも、今はそのまま放置するということはありませんから、死ねば荼毘に付されて、あなたの肉体のうち、骨だけが残り、あとは灰となります。
その骨と灰が本当にあなたなのでしょうか。
殆どの人達は、そう思っています。
だから、灰を山や海に散布したり、骨を奪い合ったり、後生大事に納骨したりするのでしょう。
しかし、それにつけても、骨と灰になった人に、天国から私達を見守っていてくださいとかと呼びかけるなんて、滑稽だと思いませんか。
そういう人達は、死んで肉体はないけれど、あの人は、確かに私の心の中に生きているんですと言われるかもしれません。
それならば、なぜ、仏壇に手を合わせたり、お墓参りをしたりするのでしょうか。
こうして考えていくと、何か矛盾を感じませんか。
どうも腑に落ちない、すっきりとしないところがありませんか。
実は、生きていることと、死んでいることに、大きな違いはないのではないでしょうか。
ただ目に見える形、つまり肉体というものがあるかないかだけで、私達は生きても、死んでも、ここに存在しているのではないでしょうか。
なぜ人間は生まれてくるのか、死んでいくのか、素朴な疑問ながら、大きなテーマです。
生まれてくるとはどういうことなのでしょうか。
死んでいくとはどういうことなのでしょうか。
その二点がはっきりと分らないから、「死んだら終わり」「一度切りの人生」「天国に召された」「あの世で仲良く私達を見守ってくれている」等々の全く馬鹿げた間違ったことが、堂々とまかり通る世の中になってしまったのです。
私は、私達人間の本当の姿は、肉という形ではなく、目に見えないもの、エネルギーであると感じています。
当然、死んで終わりではないと思っています。
だから、死ぬということで、自分の時間は途切れないと思っています。
そして、そういうところから、肉という形を持っている今を、つまり生きている今を見つめていくことが、本当に大切なことだと心得ています。
ところで、今、元気な人もそうでない人も、殆どの人は死んだら終わりだと思っているのではないでしょうか。
元気な人は、死んだら終わりだと思っているから、一度切りの人生を頑張って生きているのかもしれません。
あるいは、一度切りの人生を刹那的に生きているのかもしれません。
元気でない人もまた、死ねば終わりだと思っているから、死ねば今よりも楽になると思って、自ら死を選ぶのかもしれません。
あるいは、そこまでしなくても、気持ちは落ち込み、自暴自棄の荒れた生活を余儀なくされているかもしれません。
今、元気な人にもそうでない人にも、私はただ伝えたいです。
あなたが目にしているそのひとつの肉体だけを自分だとする思いがどれだけ愚かなことなのか、そして、苦しみはみんなそこからきていることを私は伝えていきたいです。
自分のこの心の中から湧き上がってくる思いを素直に伝えていきたいです。
人々よ、目覚めましょう。そのように伝えていきたいです。
◇
今元気な人、若い人、『死』ということはまだまだ遠いことだと思っているかもしれません。ですが、死なんて突然やってきます。
今は歩道を歩いていても、車が突っ込んできます。病院に車が突っ込んできます。コンビニに車が突っ込んできます。
「そんな馬鹿なことが」と思うことが、なんか日常茶飯事にニュースで目にし、耳にします。何が起こってもおかしくない時を迎えています。そうしたとき、自分の『死』を、やはりいつも心に留め置いて今を生きる大切さ、というのをしっかりと心で感じていくことが必要だと私は思います。
それでは最後に、ともに瞑想をしていきたいと思います。
学びをしている人はご承知の通り、田池先生、田池留吉、田池先生は2015年12月にその肉体を置いていかれました。しかし、肉体はないけれども、田池留吉の意識の世界は、肉体があってもなくてもここに存在します。波動、エネルギー、意識、田池留吉の方に心を向けてみてください。